病気がみえるシリーズ
『病みえ』だとイメージしにくい,疾患を抱えた患者さんや家族の体験をストーリーを通じて描き出す「病みえストーリーズ」シリーズ.
今回は,「ギラン・バレー症候群」を発症した水泳選手の物語の第3話(最終話)をお届けします.
作者:奈々崎 優
監修:戸島 麻耶(京都大学医学部附属病院 脳神経内科)
どんよりとした曇り空.窓は閉まっているが横風と共に雨が打ち付け,カタカタと音が鳴っている.
「……」
病室に入ってきた二人は元気がないように見える.足元は外の雨の中を歩いてきたのか床がびっしょりと濡れていた.
洋一は元気になってきているとはいえ,今日は体調が悪いこともあり二人を迎えに行くことができなかった.出だしからつまずいた気分だ.
洋一が寝るベッドのあるスペースに入り,カーテンを閉める.窓辺なこともありうっすらと光は差し込んでいた.
「久しぶり」
「やめてよ,そんな」
真理が緊張した面持ちで洋一を見つめる.一家がこんな緊張に包まれていいものかと洋一は訝しんだが,同時に我が身に降りかかる不幸の重さを実感した.
「真理も元気にしてたか?」
「うん……」
「そうか,それは良かった」
空気に耐えられなかったのか美恵が切り出す.
「わざわざ呼ぶなんて珍しいじゃない」
さあ,言わなければと思う.
「あのさ」
「うん」
「この病気が発症してからずっと辛かったよ」
「体もどんどん動かせなくなるし,人工呼吸器は入れられるし,体中痛いし」
「症状が良くなり始めてからも何ヶ月もかかるし,本当に良くなるか分からないし」
「毎日その日のことしか考えられずに必死にリハビリするしかなかった.必死に生きるしかなかった」
「でも,最近はちょっとずつ余裕が出てきたのか……もしくは単に限界が来ただけかもしれないけど……周りのことを考えられるようになって」
「俺の代わりに美恵は子育てと並行してずっと働いてるなって.俺は,ここにいるだけだし.手当は出るけどさ……俺の治療費もかかるし」
「そんな」
「実際そうだろ? それに真理の小学校の入学式にも行けなかった.こういうのが後々になって思い返すんだろうなとか」
「そうやって未来の想像をするようになってきたんだ.来年俺は何してるんだろうなって」
「ギランバレー症候群の多くは時間とともに軽快する.後遺症は残るかもしれないけど.そろそろ俺も先の事を考えなきゃいけない」
歯を食いしばる.
「だから,もう競泳はやめようかなって」
美恵と真理の顔に驚きはないようだった.
「何やるかはまだ決めてないけど,ほら,地道に働いて家にお金を入れるさ」
「……そう」
それ以上は美恵の顔を直視できなかった.
「それが今日あなたが準備してきたこと?」
「あ,あぁ」
すると少し逡巡した美恵は真理に話しかける.
「真理,一回車に戻ろ?」
「……! うん,分かった」
「洋一,ちょっと待っててね」
「いいけど,どうして」
「すぐ戻るから」
ばいばいと手を振ることもなく,二人は病室を後にする.
この話はそれほど彼女たちにとって深刻な,聞いてはいられない話だったのだろうか.
病室のベッドの上で悶々と考えているうちに二人が戻ってきた.少し雨に打たれたのか肩が濡れている.
美恵は少しにやにやしたような顔で,後ろ手に何かを持っている.
「ほら,真理」
美恵と真理は目を合わし,洋一に少し大きめの冊子を渡す.
「本? いや,スクラップブックか」
本を開けると,洋一を中心に家族の写真がたくさん貼られていた.
その中には洋一が他の選手と競いながら泳いでいる姿や,表彰台で家族と肩を組んでいる姿などがあった.
ぱらぱらとめくる.今まで洋一が見たことのないような,観客席やプールサイドから撮られた写真が多く貼ってあった.
どの写真も洋一が主役で,写真を撮った人が洋一のことをどう思っているかがありありと感じられた.
「いい写真だ」
「そうでしょ.真理が撮ったのもあるんだよ」
「ほんと? すごいな,真理は」
このぶれぶれな写真がそうなんだろうかと思い,洋一から笑みが漏れる.
あふれ出しそうなものを家族の前だからと押し殺して,本をめくっていると,ふと隣に真理が立っていることに気付く.
「パパ,もう辞めちゃうんだね.今までありがと」
真理が隠して持っていた手作りのメダルを取り出し,手を突き出す.
それは,はさみで切って丸く形を整えた段ボールに金色の折り紙を張り付けた,少しだけいびつな形をした金メダルだった.
「小さな子にとって金色の折り紙なんて貴重だろうに」
恥ずかしくて笑いが漏れる.
「そんなこと気にしなくていいのよ」
美恵も笑っている.両者の目は潤んでいるようだった.
洋一は首を突き出し真理にメダルをかけてもらう.
その場の空気を詰め込んだ段ボール製のメダルは,今まで手に入れたどんな金メダルよりも重く感じた.
「引退おめでとう.パパは私にとってヒーローだったよ」
真理はそう言いながら,目の奥には涙が滲んでいるような気がした.
真理の奥に立っている美恵も同じだった.洋一は途端に,家族にこんな痛ましい笑顔をさせている自分が恥ずかしくなった.
「引退……引退かぁ」
頭の中によくない考えが閃く.
この選択はダメだ.でも……それでも……
洋一は声を振り絞る.惨めで最低な一言を言うために.
「な,な,なんちゃって……?」
「……え?」
洋一は頭を掻きながら言葉を発すると,周りの空気が一瞬で凍るのを感じる.
「引退……しないよ.冗談,冗談……ジョーク!」
美恵も真理も洋一が言うことについていけていなかった.洋一自身としてもあり得ない発言だ.
男がここまで決断して,宣言したことをなしにしようとしている.
しかも,ここまで家族に支えられて,励まされて,送り出してもらっての今だった.
端的に言ってダサすぎた.
「俺がさ,泳いでないとみんなどうやって生活するんだってハナシ.な,そうだろ?」
そんなことは洋一が一番わかっていた.事実,こう取り繕っている洋一の顔は恥ずかしさで真っ赤になっていた.
それでも,ここで引退するわけにはいかないと思った.洋一が頑張る姿は家族みんなの心の支えになっていた.洋一が家族に支えられているのと同じように.
まとめられた写真を見て思った.洋一はかっこよかった.勝った写真もあれば負けて悔しがっている写真もあった.洋一が戦っているときの写真は全て撮られていた.いつも見ていてくれたんだ.
「あっはは.そうだね」
だんだん話が呑み込めてきた美恵が笑い始める.
笑われているのを見ると,余計に羞恥に襲われる.
でも,いくらダサくて恥ずかしくても,あの時,発症した時,大会で完走も出来なかったときに比べれば大したことはない.
あれを経験していれば無敵だ.そんなことより,どんなにダサくてもカッコ悪くても,貫かないといけないことに気付いた.
「やるよ.病気ごときに負けるかよ」
真理に見せたい.どんな苦難でも折れない大人の背中を.
「うん……うん」
美恵はさっきまで潤んでいた目からすうと涙を流している.それを見て洋一はつられて涙がこぼれる.
洋一は,状況がよく分かっていないできょろきょろしている真理の頭をガシガシとなでた.
真理はそんな家族に囲まれてどこか嬉しそうだった.
***
――二年後.
洋一はプールサイドで入念に準備体操をしていた.
体調は万全.頭からつま先まで違和感はどこにもなく,あの時とは比べるまでもない.
家族を前に決意を口にしてから,毎日のリハビリに力を入れた.
今ではほとんど回復し,何回か小規模の大会に出場することもできた.
完璧に治癒したかどうかは分からない.タイムそのものは少し落ちている.それが病気の後遺症なのか,ブランクがあったからなのか,単に歳のせいなのかは分からなかった.
ただ,洋一には発症以前より背負うものが大きくなったと感じている.そしてそれが新たな推進力となっていた.
『昔の自分の記録を超える.そうして病気に打ち勝った証明にする』 これが洋一の掲げていた目標だった.
今日の観客席はほとんど満員だ.
観客のみんなは誰を見に来ているのだろうか.最近高校を卒業して大会を荒らしまくっている隣のレーンの期待の新人だろうか.それともその奥の今一番勝ち星をあげているノリにノった選手だろうか.
けれど,一つだけわかることがある.観客席のどこかにいるだろう二人の大事な家族は洋一のことを見ているのだ.
「Take your marks」
洋一は何よりもこの瞬間が好きだった.
「ピィ!」
スタートの合図が鳴る.
洋一は不思議と誰にも負けないという直感があった.
(了)
いかがでしたか?
急速に進行する麻痺や,病への恐怖が,ストーリーを通してより鮮明に感じられたのではないでしょうか.日頃の学習では,知識を覚えることで精一杯で,患者の体験にまで想いを巡らせる余裕はなかなかないかもしれません.このストーリーが教科書の行間にある患者さんの体験を想像する助けとなれば幸いです.
このストーリーは『病気がみえる vol.7 脳・神経(第2版)』p.302-305「Guillain-Barré症候群」の項目を参考に作られました.次に本項目の「MINIMUM ESSENCE」を載せますので,ストーリーで出てきた知識の振り返りにぜひご覧ください!


今後,他の疾患のストーリーも順次公開していきます.お楽しみに!