※第1回はコチラ
国境なき医師団に履歴書を送る
私が国境無き医師団(以下MSF)に履歴書を提出したのは2011年の正月だった。
医師になって7年目、すでに産婦人科の専門医も取得し、臨床医としての自信もついてきた頃である。
同時期に研修を始めた医師たちの多くは、大学や他の病院へと職場を異動しており、ずっと手稲渓仁会病院(以下TKH)で働いている者が少なくなってきたと感じていた。
産婦人科医としてキャリアを築くためには、大学へ移って大学院に入学し、博士号をとるなり、あるいはサブスペシャリティ(産婦人科の分野でいうと、腫瘍や生殖医療、周産期医療、腹腔鏡手術)における専門医を取得するという方法がある。
特に理由があったわけではではないが、上記のキャリア構築にあまり興味が持てなかった私は、そういえば昔は途上国で働きたいと思っていたことを思い出し、MSFに履歴書を提出してみたのだ。
病院を退職することも考えていたが、当時の上司が、病院に籍を置きつつ海外に行くことを容認してくれたため、その申し出に甘えることとした。
国境なき医師団とJICAで様々な国へ
幸い、書類、面接と順調にクリアし、2011年の6月には初の海外派遣でナイジェリアへと向かうことになった。
・初の海外派遣でナイジェリアへ
ここから2014年の4月にTKHを退職するまで、5カ国(ナイジェリア、パキスタン、南スーダン、シエラレオネ、ソマリア)7回の派遣を経験した。
それらについての詳細は、後述することにする。
2013年の10月、MSFでの7回目の派遣でナイジェリアから帰国した後は、しばらくMSFの活動から遠ざかることになる。
同年末には、国際協力機構(以下JICA)のインターンとしてカンボジアに行き、2014年2月にはJICAの母子保健のプロジェクトの短期専門家としてドミニカ共和国への派遣を経て、同年4月に、足掛け10年間働いたTKHを退職した。
その後の1年間は生殖医療に従事した。これには理由がある。
MSFでの活動では、ほぼ、救急産科医療を担当していた。
MSFの産科・母子保健のプロジェクトには、必ずしも産婦人科医が配置されているわけではなく、なかには助産師と外科医により(帝王切開を含めた)日々の業務が行われているプロジェクトもある。産科医でなくても産科医療を担っていたのだ。
この事実を知ったときに、“産婦人科医のアイデンティティは生殖医療にこそある”と思い、体外受精を含めた生殖医療の基礎を学ばなければならないと考えたのだ。
その後、2015年の4月からはJICAの本部で国際協力専門員として2年あまり働いた。詳細については後述したい。
この間、はじめて臨床医としてではない医師としての勤務を経験し、おおよそ半分程度の時間を海外出張で過ごすこととなった。
再びMSFの活動に戻るため、2017年5月にJICAを退職し、晴れて無職となった。
6-7月は、4年ぶりにMSFの活動に参加し、3度目となるナイジェリアを訪れた。
2年間の臨床経験のブランクが気になったが、全くの杞憂に終わった。
・3度目のナイジェリア
今後しばらくの間は、国内で子宮頸がん検診、当直、外来の仕事をしながら、MSFあるいはそれ以外の海外での仕事の機会をうかがいつつ生計を立てていこうと思案しているところである。
そんなこんなで2017年9月現在、太平洋上で船医をしながらこの文章を書いている。
~第3回へ続く~
※全10回を予定しています!続きもお楽しみに!