病気がみえるシリーズ
「病みえストーリーズ」第二回!
皆さんは,教科書には載っていない患者さんの体験を想像できていますか?
普段,手に取る教科書や参考書では「症状」や「経過」「治療」などが無機質な知識として並んでいるように見えるかもしれません.しかし,その裏側には,患者さんやその家族が抱える不安,生活の変化,そして葛藤があるのです.「病みえストーリーズ」シリーズでは,そうした患者さんや家族の体験をストーリーを通じて描き出します.
教科書では端的に記されている症状が,日常にどのように影響を及ぼし,患者さんがそれをどう受け止め,生活を再構築していくのか…….そのプロセスを追体験することは,将来,皆さんが患者さんの言葉に耳を傾ける際の糧となるはずです!
今回は,「正常圧水頭症」を発症した漫画家のストーリーをお届けします.この疾患が患者さんや周りにどのような体験をもたらすのか,ストーリーを通じて学んでいきましょう!
※本ストーリーは『病気がみえる vol.7 脳・神経(第3版)』p.188「正常圧水頭症」の項目を参考に作られています.
※病みえの「MINIMUM ESSENCE(必須の知識をまとめた項目)」に出てくる重要な情報は太字で示されています.
作者:奈々崎 優
監修:戸島 麻耶(京都大学医学部附属病院 脳神経内科)
「夏目先生? 分かってますよね?」
昼を過ぎ高く登った太陽がオフィスの中を照らす.お昼時とは思えないほどの喧騒が辺りを支配していた.
「だから,お願いしますって.もう用意してくれなきゃ困るんですって」
密集したデスクの一つに備え付けられた電話を取りながら,机に乗せた指をカタカタと鳴らす.
「締切! 守ってもらうのが当たり前でしょう.そうですよね?」
貧乏ゆすりも止まらず机がガタガタ揺れている.あまりの音に隣の席の田代もこちらを見ている.
「頼みますよ,誌面空いたらどうするんですか」
電話の向こうからは申し訳なさそうな,落ち込んだような声が聞こえる.
「うちの売上高知ってます? 印刷所との契約費知ってます? 先生一人のせいでそれ全部ぱぁになったらどう責任取れるんです?」
反論してきそうな気配を感じたのですかさず次のセリフをねじ込む.
「先生も大人なんですからそのへん分かってますよね?」
すると,向こうも諦めたのかあまり意味のない言い訳を言うだけになった.ここで餌を垂らしてやればいい.
「はいはい,分かりましたから.あと一日だけ伸ばします.それでお願いできますか?」
この流れで言えば,多少無理な要求も飲んでくれることが多い.
「はい.じゃあ頼みますよ」
はぁとため息をつき,無造作に受話器を戻す.
「おっかないですねぇ」
隣の席で俺の電話対応を見物していた後輩の田代が話しかけてくる.
「んん……? ああ.これな」
話しかけられたことによって,触れるもの全てに毒を吐きたいような気分は俺の中からすっと消える.
「イラついてる感出さないと作家も焦ってくれないからな.演技だよ演技」
「……そうは見えないすけど」
「実際にイライラするように心を作り変えるんだよ」
「はぁ.じゃあキレてんじゃないっすか」
「キレてねえって.演技演技」
「堂々巡りっすね」
マンガの編集で一番多い業務は事務作業だとはいえ,作家とのコミュニケーションはどうしても必須スキルだ.漫画編集として10年も働いていたら,まだ未熟とはいえこれぐらいの小手先の技術は手に入れている.
「で,今のは誰っすか?」
「最近連載決まった新人.アレ,夏目先生.分かる?」
「そりゃ,担当外の作家とはいえ,うちで描いてる人ぐらい抑えてますよ」
そりゃそうかと内心納得して話を続ける.
「編集やっててしんどいのは新人とベテランだな.締切命だってのに,守ろうとしない」
「あー」
思い当たることがあるのか,田代はそれ以上何も言わなかった.
最低限の荷物整理だけしてカバンに詰め,立ち上がる.
「お.お疲れ様です.どこ行かれるんですか?」
「今度はもう片方のしんどい方」
***
相変わらず日差しは強く殺人的だったが,冷房の中移動できるほど会社が大きいことの幸運を噛みしめていた.
20階ほどの小綺麗なマンションの前にタクシーを止める.都内の移動なので30分とかからず到着した.
エレベーターに乗り目的の作家の作業部屋の前に立つ.
ネクタイを直し,ピンポンを押す.
なかなか応答がないためもう一度押そうか逡巡しているとピッと音が鳴る.
「お疲れ様です,先生.今お時間よろしいでしょうか……」
こちらが話している途中にもかかわらず,ぶちりと切られた.
どうしたものか考えていると,ガチャリと扉が開く.
よれよれになった作務衣を着たひげ面で年配の男性が顔を出す.今回の目的の西田先生だ.
「ん」
挨拶もなくぶっきらぼうに大きな茶封筒を俺に突きつける.中身はぎっしりと詰まっているようだ.
「お,原稿できたんですね.ギリギリなんで遅れるかと思いまし……」
言い終わる前に扉が閉まろうとしている.俺は咄嗟に足をねじ込んで止めた.
「ちょちょ,待ってくださいよ! せっかく来たんで少し話でもしましょうよ」
「……必要ないだろう」
「だって,今回は間に合いましたけど,またギリギリになったら困りますって!」
「次も間に合う.それだけだ」
西田先生は目も合わせず早く戻りたそうにしていた.
「先生ー? 入れてあげればいいじゃないですか」
奥の方から若い男の声が聞こえる.確か,アシスタントの広野だ.
「原稿出したばっかでそんな忙しくないでしょ.今」
「ふん」
諦めたように踵を返し部屋に戻っていく.廊下を歩く先生に違和感を覚える.歩き方が少しゆっくりでどこかおかしいような気がした.
先生はさっさと部屋の最奥にある自分の作業机に戻りペンを持つ.
その手前には壁に沿うようにアシスタントの机が4つほど並び中央にはソファが置かれていた.
大抵の作家がデジタル化した現代ではこんなレトロな作業部屋は珍しかった.
「松浦さん,お疲れ様です.先生の担当なんて気の毒ですね」
俺がソファに座ると,広野が丁寧に冷たいお茶を出してくれる.
「そんな,気の毒なんて.これが仕事だから」
「はぁ,そうですか」
「西田先生ももう70近いですからね,無神経なところも多いんですよ.描きながらずっと嫌だ嫌だ言ってるし.めんどくさいとかばっかり言って,やる気あるんですかね,先生」
こんな距離でそんなことを言える広田こそ無神経だろとは言いたかったが,西田先生が反応しないのを見るに,これがこの部屋の空気なんだろう.
「歳って怖いですねー.病気も増えてきちゃって.先生も何か月か前にぶっ倒れてたし」
「あれ何だったんだっけ.くも膜下出血?」
「あー,そうそう,それです.あの時に休載やってからなんか思うところあるのか最近先生,無理することが多いんですよね」
周りを少しだけ見回して,広田が俺に顔を近づける.
「しかも最近ちょっとボケてきてて……」
広田が耳打ちする.
「元々あんなだったのに,最近は輪をかけて態度が悪いですよ」
「さすがにうまく回らないこともあって……いや,勉強になるからいますけど,何とかしてくださいよ」
様子を見て西田先生に話しかけてみる.先生はうんうん言いながらネームを作るのに頭を捻っているようだった.
「先生,調子はどうですか?」
「……普通だ」
後ろでアシスタントが小さく首を振っている.
「んー,普通ならこんな締切ギリギリにならないでしょう」
「間に合ってるなら問題ないはずだが?」
「間に合わないリスクを考えるのがこちらとしては負担になるって言っているんですよ」
いつも通り少しイライラを見せるように話すがこの男にはほとんど意味がないように見えた.
「君が出してくる締切と本当の締切は当然違うだろう.最初の締切守っている時点で問題はないだろう」
「まぁ,そうですけど……」
「それでも直しが入れられないペースで作られるとクオリティが担保できないんですって」
「じゃあ,これはどうだったんだ?」
たった今提出された原稿を机に向かって優しく叩く.
茶封筒から原稿を取り出し,細かく確認する.
10分ほど時間をかけた後,原稿をしまう.
「……面白いですね」
先週からの繋がりも,来週へのヒキも問題ない.原稿段階で直すところはないように思えた.
「じゃあ,作業に戻らせてもらう.あぁ,めんどくさい」
また机に向き直りペンを走らせてる.
どこか納得いかないまま,俺は先生の作業部屋を後にした.
***
だが,次の原稿が締切通り上がることはなかった.
もうこの年でさえ嫌になってくるほど見慣れたオフィス.
日が落ちても帰ろうとする人は少ない.それが漫画編集の仕事だった.
それでも夕方を過ぎたこの時間にこれほど電話をかけ続ける人はまれだった.
そこに電話をかけては誰も出ずにかけ直す.
仕事が一段落したのかチェアでリラックスしている田代が隣から声をかけてくる.
「どうしたんすか? そんな鬼気迫る顔で」
「西田先生のネームが上がらないんだよ」
「へぇ,珍しいっすね」
「そう思うさ.なんだかんだ締切には間に合わせるタイプだからな.だから今まで放っといたんだけど,電話すら出ねえや」
ネームに厳密なスケジュールがあるわけではない.しかし仮の締切が存在し,それは数日前に過ぎていた.今はそれを超えて原稿に手を付けなければ間に合わないギリギリの日付だ.
「なんなら休載になっちゃったら初めてなんじゃないですか?」
「いや,前倒れた時に一週休載取ってる」
「じゃあそれこそ死んでんじゃないすか? もう歳でしょ」
倒れたという言葉から連想して田代はそう考えたらしい.
「嫌なこと言うなお前.……でもそんな風にぶっ倒れたらアシがいるはずだしそっちから連絡来るだろ」
「そうだ,アシに連絡してみるか」
そんな単純なことに気付かなかったとは自分でも思っている以上に焦っているようだ.
『はい,もしもし』
「広田か? 先生はどうした」
『どうしたもこうしたもないですよ……』
「なにかあったのか?」
先刻の話の流れで少し嫌な予感がする.
『なにか,ってことはないですけど.先生もうボケちゃって』
「ボケ……?」
微妙に想像からズレた返答に困惑する.
『ネーム届きましたか?』
「いや,まだだ」
『多分描いてないんじゃないですかね.椅子に座ってピクリとも動かないままずーっと考え込んでて.声かけても怒鳴られるだけだし』
『もともと偏屈な人でしたけど最近でも一番レベルで情緒おかしかったですね.なんにせよ,ネームも上がらなきゃ僕達もやることないんで一旦引き払ってますけど』
「そうか,とりあえず様子見に行くよ.締切まで放置した俺が馬鹿だった」
『そんな,先生が悪いんですよ』
電話を切ると,すぐにオフィスを発った.