診察ができる vol.2 鑑別診断
『病みえ』だとイメージしにくい,疾患を抱えた患者さんや家族の体験をストーリーを通じて描き出す「病みえストーリーズ」シリーズ.
今回は,「正常圧水頭症」を発症したベテラン漫画家のストーリーの第2話をお届けします.
※本ストーリーは『病気がみえる vol.7 脳・神経(第3版)』p.188「正常圧水頭症」の項目を参考に作られています.
※病みえの「MINIMUM ESSENCE(必須の知識をまとめた項目)」に出てくる重要な情報は太字で示されています.
作者:奈々崎 優
監修:戸島 麻耶(京都大学医学部附属病院 脳神経内科)
マンションに着くと,駆け足で扉の前まで走り寄りすかさずピンポンを鳴らす.しかし逸る心とは裏腹に辺りは静寂で満ちていた.
30秒ほど待って,それからはピンポンを鳴らし続ける.
それでも何分待っても先生は出なかった.
「先生ー!? いないんですか!?」
試しにドアノブを握ると扉が開く.
「不用心な……」
失礼しますと小さく宣言して中に入り,靴を脱ぎ前と変わりのない廊下を歩き,居間へ目を移すと椅子に座ってぼーっとしている先生がいた.
すえた臭いが鼻腔を刺す.ここに人がいるとしたらそれだけで異常だと思える空気感があった.
「先生……?」
ピクリとも動かない彼の体は死人のそれを思わせた.一瞬ギクリとしたが幸いにも返答があった.
「ん……?」
発声はあるものの心ここにあらずといった具合だ.
「えー……」
しばらくしてこちらの存在に気付くも,誰だか分かってないかのように俺の顔を見続ける.
「どうしたんですか? 先生」
今度はきちんと聞いた俺の問いかけに合点がいったのか先生が話し始める.
「ああ,ネームか.ちょっと待ってくれないか.もうすぐ描けそうなんだ」
「大丈夫なんですか?」
勿論,締切に間に合うかという問いではない.彼の様子を見た時点で心配は先生の体調に向けられるようになった.しかし彼の受け取り方は違った.
「ああ,締切はいつだっけ.今日は何日だ?」
先生はまるで頭が回っていないかのように返答する.
「……先生.今日ですよ.締切」
一応聞かれた通りに答える.
「そうか.この年になるとボケてかなわん」
見るに見かねて視線を逸らし,机の方を見るとインクがこぼれていた.
「ちょっと! 掃除しましょうよ」
「……どうでもいいだろそんなこと」
「作業環境がどうでもいいことはないでしょう」
それほどまでに机は汚れ切っていた.
「それよりまず考えないと」
きっとぼーっとしているようで彼の頭の中は漫画でいっぱいなんだろう.少し頭が回らなかろうと俺が来訪しようと,変わらず面白い漫画を描こうとする.その姿勢だけは見せつけられた.
「……分かりました.締切あと3日伸ばします.それまでにネームだけでも上げてください」
「それがどうしても無理なら,一週間後に……よろしくお願いします」
先生は明らかに無理している.だとしたら俺がかける言葉はそれしかない.上がるのを信頼して待つだけだ.
そして同時に,この時点で休載の手続きを踏まないといけないと画策していた.
***
そして3日が過ぎた.
「松浦.西田先生の原稿はどうなってる」
編集長が俺のデスクまで出向いて来てはそう尋ねる.
「……まだです.先日話したように休載の方向でお願いできますか?」
先生の様子はまだ簡単にしか話せていない.実際にあの様子を見ていない編集長には原稿を落としている俺にいい印象はないようで,腕を組んでしかめ面をしながらこちらを見ている.
「ふん,まあいいが.もう無理なんだったら早めにそう言えよ.先生の人気も落ちてきてるし打ち切りにするのはそんなに難しくない」
「そうですか……」
編集長の諦観も分からなくはない.会議でも何度か打ち切りの候補に挙がったこともある.さらに読者からはまだ終わっていないのはベテランだからだと揶揄されるほどだ.
「でも,本当にいいんですか?」
ふと,反駁したくなる.
「なにが」
「先生の漫画,面白いですよ」
先生が一人で描こうとするのなら一人ぐらい味方がいてやってもいいんじゃないかと思った.
「人気がないのに?」
「それは今漫画の展開が狙って谷にあるだけですよ.きっと,ここからあっという話で挽回してくれるはずです」
「じゃあそのあっというようなネームはいつ出るんだ?」
「それは……」
そう言われると何も返すセリフはない.西田先生はそれを描くために今も頑張っているはずだからだ.
言葉に詰まった俺を見て徒労だと悟ったのか興味なさそうにその場を去った.
どうして俺はこんなにムキになっているんだろう.今までのように冷酷に切り捨てればいいのに.
***
そこから4日が経った.結局一週休載予定ということになった.
休載自体は受け入れてくれた編集長だがいい顔はしなかった.
編集長と話していて,先生が描けないならこれを機会に打ち切りにしたいという意思を感じた.
2週連続休載は厳しいところがあるだろう.それに今原稿を完成させて連載再開したとして,この先描き続けられる保証はどこにもない.歳のせいというのなら病気とは違うのだ.
西田先生のマンションの扉の前に立つ.あれから一度も先生とは連絡が取れていない.電話は毎日入れているが出ることは一度としてなかった.
先生を信じるしかない.そう思って,設定した締切まで待っていた.今,内心ヒヤヒヤしつつも直接訪れてみたわけだ.
ピンポンを押し,相変わらず誰も応答しないことを確認してから,ドアの取っ手を回す.やはり前回と同じようにすっと扉は開いた.
「先生……?」
扉を開けただけで異変を感じ取る.インクでぐしゃぐしゃになった紙がいくつも廊下に落ちている.壁も黒く擦ったような跡が散見された.
廊下を恐る恐る通り作業場への扉をゆっくりと開く.
そこにいた.いつもと同じ机の前に座り,いつもと同じ服を着た西田先生が.
ただ,その部屋は様変わりしていた.
「先生!」
辺りには書き損じたのかボツにしたのか,ネームが散乱している.その数はざっと見るだけで数百枚はあるだろうか,机を中心にして周り一帯に散らばっていた.
壁には転倒し,どこかでぶつけたのか血が付着した跡さえある.先生の唇を見ると黒いものがへばりついているのでそこからの出血だろう.
「なにしてるんですか先生! こんな……こんな……」
西田先生に駆け寄る俺にゆっくりと反応を示す.
「……あぁ? えっと」
だが,パッとは俺の名前が出ないようだった.
「俺ですよ! 担当の松浦ですよ! 一体どうしたんですか!?」
「あぁ,君か.そうだそうだ.ネームが纏まらなくてな……すまん,もうちょっと待ってもらえるか」
そんなところじゃ……と言いかけて,もう一つの異変に気付く.
鼻を刺す異臭がする.もしやと思い聞いてみる.
「先生,トイレって行ってます?」
すると,少し恥ずかしそうに先生が答える.
「歳のせいかな,おしっこが我慢できなくてな.勝手に出ちゃうんだよ.今はオムツを履いてる」
「作画資料用に買っておいたのがあってな.はっは,自分で使うとは」
「まあ,ここで集中していたいからちょうどいいかと思っているよ」
唖然とした.ここまで,ここまでするのかこの人は.
「そんなになってまで漫画描かなくてもいいでしょう!」
思わずそんな言葉を吐いていた.
「……」
「先生なんてもうこんな歳でしょう! 今までの稼ぎで十分暮らしていけるはず! 先生だって描きたくないって言ってたじゃないですか!」
「……そんなこと言ったかな」
「この……」
ハッとする.確かにそうは言ってなかった気がする.嫌だとはずっと言ってたが.辞めたいとは一度も.
「でもそうかもなぁ.面白いもの描けなきゃダメなんだよ」
それだけ言うと,また石のように停止したままうなされるようにうんうん考え込み始めた.
見ていられなかった.ここまでしたって先生がボケてしまったら描けるものも描けない.そうだろう.編集長の言う通り終わらせてしまえばいいんだ.家族と一緒に余生を過ごせばいいだろう.
試しに周りに散らばったネームを拾い上げて読んでみる.
ペラペラとめくっていく.
全く筋が通ってない意味不明なネームが多かった.やはりこれでは連載再開へとは向かえないだろう.先生が投げ捨てた理由も分かりはする.
(でも,これ……)
面白い.
意味不明だろうと,ボケててマトモな話が描けないとしてもそこには確かに熱があった.
俺はいくつかのネームを読み終わった後問いかける.
「こんなネームじゃ通せないですよ,先生.なんで……そうまでして描こうとするんですか」
そうか……と少しだけ悲しそうな目をする.
「でも,楽しみに待ってくれてる読者がいるから」
***
結局,机に向かう先生一人を置いてあの部屋を後にする.
自分ではもうどうすればいいか分からなくなっていた.企業のサラリーマンとしては冷酷に先生を切るのが間違いなく正解だ.
だが,あの熱のこもったネームを見ると続きが読みたくなっているのも否定できなかった.
そうあちこちに思考を巡らせながら歩いていると,道路沿いにコンビニで立ち読みしている人を見つけた.
あの号にはまだ先生の漫画が載っていた.掲載順は結構後ろの方だったはずだ.
あの人は先生の漫画を読んでいるんだろうか.楽しみにしているんだろうか.そんなことまで気になってくる.
立ち読みしている人なんて無表情に決まってる.なのに,その人はどこか恍惚の表情を浮かべているように見えた.
(第3話へ続く)