イヤーノート2025(電子版)
国境なき医師団やJICAで働く(1)~竹中裕先生~[みんなが知らない医師のシゴト]
医学部を卒業した場合、日本の大学や市中病院で研修し、勤務医や開業医になるのが一般的な医師のキャリアだと思います。
この場合、みなさんの周りに沢山のすばらしい先達がいらっしゃり、直接話を聞くこともできると思います。
でも、少数ながら、みなさんのうち何人かの方で、国際貢献や起業、厚労省技官、弁護士、海外での就職などなど、一般的な勤務医や開業医とは異なる活躍の仕方にも興味がある人もいるのではないでしょうか。
こうした仕事をされていることは知っていても直接話を聞くことはなかなかできないですよね。
本連載では「みんなが知らない医師のシゴト」として、そんな臨床医・研究者とは異なる活躍をされている方に、どうしてそうなったか、どうやったらなれるか、やってみてどうだったかをお教えいただきます。
第一回は、国境なき医師団(MSF)やJICAなど国際医療貢献の現場で活躍されていた竹中裕先生です。
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国境なき医師団(MSF)やJICAで働く~竹中裕先生~
【第1回:自己紹介その1】
医師になって海外で働いてみたいと考えている人はわりと多いのではないだろうか。
一口に海外で働くといっても、その働き方はさまざまである。
欧米で臨床に従事する、研究に従事する、あるいは途上国で臨床に従事する、途上国のために臨床以外の分野で働く、などいろいろ考えられる。
残念ながら、これまで欧米で仕事した経験はないが、途上国を中心に保健・医療の分野における経験はあるので、それらに興味がある人の参考になればと思い今までの自分の経験を共有したいと思う。
私は2004年卒の、卒後14年目の産婦人科医である。
1996年に大学医学部に入学した。
そのまま順当にいけば、2002年に卒業する予定であった。
もしそうであれば、大学の医局に属し、いわゆる医局人事のなかで生きていく人生を選択していたことは間違いないだろう。
まわりもみんなそうするのが当然という空気がその当時はあった。
不幸なことに、入学後、1年半で留年した。
教養のたった1つの単位のために留年を決定した大学もどうかと思うが、抗議したところで決定が覆るはずも無く、気持ちを切り替えて留年生活を楽しむこととした。
落とした単位は1つだけだったので、半年は休学し、バイトでためた貯金をもってヨーロッパを旅行した。
当時は今よりも円安だったため、物価高に苦しんだが、旅行自体は非常に楽しく、以後も夏休みなどの休暇には1-2ヶ月の旅行を繰り返すようになった。
折角なのでと、更に1年休学し、世界を旅行した。
卒業は2004年となり、その年から開始される卒後臨床研修必修化の影響を受けることとなった。
生まれてからの25年間を関西で過ごした私は、北海道札幌市の手稲渓仁会病院(以下、TKH)を臨床研修先として選択した。
マッチングによる決定だったが、北海道の病院を2つ、沖縄の病院を2つ、地元の病院を2つ受験した。
現在の状況はよく知らないが、当時、TKHはアメリカ人の医師を研修医の教育係として雇っていた。
アメリカのピッツバーグ大学と提携しており、USMLEを突破した研修医には、アメリカで臨床医として働くことができるという進路が半ば約束されていた。
英語で行われる教育的なカンファレンスや、院内での英会話のクラスなども充実しており、将来、アメリカへの臨床留学を志す若い医師が多かった様に思う。
私も1%ぐらいはアメリカで働いてみたいと思っていたが、どちらかといえば混沌としている途上国を旅するほうが好きだったこともあり、漠然と途上国における医療を志すようになっていた。
しかしながら具体策はほとんどなかった。
英語は必ず役に立つだろうという考えと、あとは、外科手術(臨床)から母子保健(公衆衛生)まで幅広い選択肢をもつ産婦人科を専門としようと考えるぐらいだった。
結局、TKHには2014年の4月まで、およそ10年在籍することとなった。
最初の2年は初期研修医として各科スーパーローテートを行い、3年目からは産婦人科医として勤務した。
北海道を代表する急性期病院であり、各科ともに非常に多くの症例が集まる病院であった。
多くの若い医師が実感すると思うが、日々の症例を通して、自分の臨床能力の成長を実感する毎日が続くと同時に、途上国で働きたいと思う気持ちも忘れていった。
初期研修医の頃に、一度、国境なき医師団(以下MSF)の説明会を聞きに行ったことがあったが、まだ自分の意思としての経験が浅く、応募できる段階ではなかったために、いつしかそんなことも忘れていた。
第2回へつづく