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巨大鉄鋼メーカーの専属産業医として働く(1)なぜ産業医になったのか~田中完先生~[みんなが知らない医師のシゴト]

「まさに不夜城です」,作業着にヘルメット姿で社用車のハンドルを握る先生は,どこか楽しげだった.

 

東京ドーム約200個分の広大な敷地には,見渡す限り巨大な工場が建ち並び,24時間365日休まずに鉄を作り続ける.

「ここが一番熱いかな?」,そう言って工場の扉を開けた瞬間,全身が熱気に包まれる.溶けた鉄は摂氏1500度にも達し,じっとりと汗がにじみ出てくる.

 

鉄は,ありとあらゆる産業にとって,なくてはならない存在だ.その鉄をつくる製鉄業は「産業保健のデパート」とも呼ばれ,「産業保健のエッセンスが詰まっている」と先生は語る.

 

今回は「みんなが知らない医師のシゴト」シリーズの第二弾として,新日鐵住金鹿島製鐵所で産業医として活躍する田中 完(たなか ひろし)先生に,いままでのキャリア産業医に興味を持ったきっかけ産業医のやりがい,また実際の産業医活動などを聞く.

 

 

―まず医師になるまでの経歴をお聞かせください.

 

ぼくは長野県木曽郡日義村という御嶽山と駒ケ岳に囲まれた山間の温泉旅館に生まれました.

全人口はわずか約2500人,学校と自宅の距離は片道約5キロ,もっとも近くにある医療機関は「日義村へき地診療所」といういわば田舎の村でした.

そうした土地柄もあり,豊かな自然を肌で感じながら,学校生活を送りました.

 

ですが,ぼくが中学校に入学する時期に,ちょうどバブル経済の波が押し寄せました.

慣れ親しんだ森,それも樹齢200年もありそうな樹木が,一瞬で伐採され,別荘地になっていく.

そうこうしているうちに,バブルはあっという間に弾けてしまい,別荘は多くが廃墟同然になってしまいました.

そのときになんとなく心にひっかかる違和感があり,こんなに人間をつき動かす経済は一体なんなんだろうという思いを漠然と抱くようになりました.

 

 

―最初は環境問題に興味があったのですね.

 

環境問題だけではなく,自然環境に影響を与える人口問題にも敏感でした.

地球上に増えすぎた人口をどうすればいいのかと真面目に考え,じゃあ宇宙に行けばいいんだ,と思い立ちました.

くしくも当時は医師免許を持った向井千秋さんが宇宙飛行士として活躍していました.

いわば宇宙に行くために医師になろうという突飛な動機です.

いま思えばナチュラルハイだったのかもしれません.

 

 

―高校卒業後は産業医科大学へ入学されます.入学当時は産業医に興味や関心はありましたか.

 

入学直後は実家の温泉旅館の近くにスキー場がたくさんあったため,漠然と整形外科医を目指していました.

ただ5年生の臨床実習(ポリクリ)の時間に空きコマがあり,たまたま産業保健のセミナーに出席したんです.

そしてそのセミナーの講師陣のひとりが,森晃爾先生(現:産業医科大学医学部 産業生態科学研究所 産業保健経営学 教授)でした.

森先生は,大手企業の専属産業医を辞め,後進を指導するために,ふたたび大学へ戻ったという経歴の持ち主で,産業衛生にとても熱い思いを持っていました.

 

ぼくはその森先生に影響を受け,徐々に産業衛生の分野へ興味を持ち始めました.

森先生には,親身になっていろいろと話していただき,その経験は今後のキャリアの選択に少なくない影響があったと思います.

 

 

―産業医科大学卒業後には,臨床研修先として,名古屋徳洲会総合病院を選ばれます.

 

たしかに産業保健や産業医に興味は持ち始めていました.

また医師を志したきっかけでもある宇宙医学にも同じく興味はありました.

ただ当時流行っていたドラマ「ER緊急救命室」の影響も手伝ってか,臨床医学,それも救急医療の世界に飛び込んでみようと思い,救急で有名だった名古屋徳洲会総合病院を選びました.

 

結果,救急医療はとても魅力的で,愛知県救急指導医師やJPTECインストラクターといった資格も取りました.

ですが,同時にToo Lateな症例も多く診ました.ぼくが精一杯頑張っても,もう遅いでしょうという症例を多く診てしまったのです.

 

たとえば,意識不明で救急搬送された40歳代の男性.

まずは脳か心臓かを判断し,脳血管障害を疑った後は,先に結果が出るCTへ送ります.

そして脳内出血を念頭に,止血剤をポケットに入れ,ストレッチャーを運びます.

そして画像を見てビンゴ.

その場で止血剤を注入する.そうした環境に身を置いて,ぼくは生命の最前線で一分一秒を争っているんだと,なんだかすごいな,という感覚もありました.

 

ですが,一命を取りとめた患者さんをICUに運び,翌日様子を見に行く.

すると,ベッドの横でまだ小さい子どもを抱えた奥さんがぼーっと立っているんです.

 

実はその患者さんは生命こそ取りとめたものの,半身麻痺の後遺症が残ってしまいました.

奥さんの立場にたてば,半身麻痺になった旦那の介護,まだ小さい子供の養育といったさまざまな困難が立ちはだかっているわけです.

そこで「ああ,しまった」と思いました.

 

ぼくはたしかに生命は救った.

けれども,病気に苦しむ患者さん本人やその家族が抱える困難は,生命を救っただけでは解決しない.

もちろん医師として生命の危機に瀕する患者さんを救うのは当たり前です.

ただ,病院でいくら腕を磨いても,患者が来てからが勝負になってしまうと気づいたんです.

 

 

―待ちではなく攻めの医療が必要とお考えになられたのですか.

 

そうですね.

本当に患者を幸せにするためには,そもそも病気にならない,いわば病気を未然に予防することこそ大事だと痛感しました.

 

実はさきほどの患者さんは,3日間連続で徹夜した後に,事務所で意識を失い,同僚に発見されたのです.

徹夜の2日目に「もうやめとけよ」と声をかける人がいれば,結果は違ったのかなと思いました.

 

心筋梗塞を発症した27歳男性の症例もよく覚えています.

通常20歳代の心筋梗塞はあまり見かけませんが,その男性はクレーム対応の業務にあたっており,過度なストレスの反動で過食していたそうです.

その結果,急激に太ってしまい,心筋梗塞を招いてしまった.

 

同居していた女性が発見し,救急隊の指示で心臓マッサージを試みましたが,体重が重く,身体を仰向けに動かせないまま,救急隊到着までなにも手を打てなかった.

結局,病院搬送後に心拍は再開したものの,1週間後にはお亡くなりになってしまい,同居していた女性が号泣しているのを目の当たりにしました.

 

このときも,ストレスで急激に太っていく男性に,一言「もうやめとけよ」と声をかける人がいれば,もしかすると結果は違っていたのかと思い,ある種の矛盾感というか,虚しさを感じました.

 

 

―そうした経験が産業医を志すきっかけになったのでしょうか.

 

いわばそうした経験の積み重ねですね.

待ちの姿勢だと,いくら最善の医療を提供しても,必ずしも患者さんは幸せにならないという気持ちが強くなりました.

 

ただ,待ちの姿勢といっても,救命救急は一分一秒を争う厳しい世界です.

実際に「待っている」時間は少なく,ひっきりなしに来院する患者さんの治療に追われ,忙しい毎日でした.

ただし,そうした臨床で掴んだ感覚が,病院を出て現場に入る,いわば攻めの姿勢を取れる産業医にふたたび興味を向かわせたきっかけになりました.

 

(第2回に続く)

 

 [プロフィール]

田中 完(たなか ひろし)/新日鐵住金株式会社 鹿島製鐵所 安全環境防災部 安全健康室 主幹/産業医

長野県木曽郡出身.2005年,産業医科大学医学部卒業.名古屋徳洲会総合病院で臨床研修.

2008年,産業医科大学実務研修センター修練医を経て,2009年,新日本製鐵株式会社(現:新日鐵住金株式会社)へ入社.

名古屋製鐵所勤務を経て,2015年より現職.

社会医学系指導医,日本産業衛生学会指導医,温泉療法医,宇宙航空医学認定医,労働衛生コンサルタント.