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巨大鉄鋼メーカーの専属産業医として働く(2)「産業保健のデパート」で見つけた魅力~田中完先生~[みんなが知らない医師のシゴト]

第1回から続く)

 

―田中先生は,救急の臨床に3年間携わったのち,出身の産業医科大学に戻られています.

 

産業医科大学の卒業生は,医師免許の取得と同時に,産業医に選任される資格を得ています.

そのため,救急を離れた後は,すぐに産業医として働こうと考え,大学時代にお世話になった森先生に相談しました.

すると先生は「いったん産業医科大学に戻りなさい」とアドバイスをくださり,修練医として1年間大学に戻り,おもに中小企業の嘱託産業医を務めながら,実務経験を積みました.

 

 

―1年間の修練医時代はいかがでしたか.

 

嘱託産業医として担当した企業や事業所は,製造業から教育機関までさまざまでした.

産業医科大学出身とはいえ,腰を据えて産業医活動に取り組んだ経験はなく,いま思い返せば試行錯誤を繰り返す産業医活動だったなと思います.

 

たとえば,ピラミッド型の組織ではない教育機関で,管理職を介したラインケアを目指しても,校長と教頭しか管理職はいない.

更に就業配慮もしにくい.「あなたは午前中だけ」「あなたは数学だけ」といった具合にはいきません.

そうした実際の困難も,現場に出て学んだ部分が大きいです.

あとはメンタル不調の従業員と面談していたら,本人の言動に翻弄され,いつの間にか面談時間が3時間経っていたなんてこともありました.

今ではそんなことはありませんけれども.

 

ただ以前の臨床とは異なる新しい世界だったため,刺激的でまったく飽きませんでした

そして経験を積んでいくと,産業医とはどんな仕事で,産業医にどんな医師が向いているのか,といった感触もなんとなく掴め,ぼくは産業医に向いているな,という感覚も徐々に強くなっていきました.

 

 

―修練医として1年間トレーニングを積んだ後に,専属産業医として新日本製鐵株式会社(現:新日鐵住金株式会社)へ入社されます.

 

ぼくは当初,出身が長野県ということもあり,漠然と東海エリアの大手企業に勤めようと思っていました.

東海エリアには大手企業がたくさんありますが,なかでもとある有名メーカーに入社しようと思い,同じく森先生に相談しました.

 

ですが先生は思うところがあったのか,「もっと君に向いているところがある」と新日本製鐵株式会社(現:新日鐵住金株式会社)を紹介され,縁あって名古屋製鐵所に勤務することになりました.

思えば,いままで医学部を受験したのも,救急医学を選んだのも,すべて自分自身で決めていました.

 

しかし,今回だけは自分以外の意見を全面的に受け入れてみようと考えたのです.

自分で物事を決めたら,物事はすべて自分の発想からつながっていく.

それは良いことでもある反面,逆に選択の幅を狭めてしまう可能性もあります.

そのため,今回は選択を「ポーン」と他人に投げ,自分の幅を広げてみようと思い,その道に進みました.

 

 

―他人に選択を委ねた結果はいかがでしたか.

 

結果的に正解でした.最初は「こんな職場が日本にあったのか」と,製鉄業のインパクトにただただ圧倒されるばかりでしたが,面談や巡視を重ねていくと,「製鉄業は面白い」という思いが強くなっていきました.

 

言わずもがな製鉄所は暑い.

たとえば,溶けた鉄を精製する職場の従業員は,摂氏40度以上の環境で作業します.

その職場では,8時間の業務時間中に5リットルの水分を補給しても,1回もトイレに行かない従業員もいるくらいです.

ただし製鉄所内だと,それは「中くらい」の気温です.

ぼくが巡視した中でもっとも暑かったのは,コークス炉の地下で摂氏61度.

それだけの熱さですから,自然と熱中症のリスクも高くなってしまいます.

 

また鉄を溶かす高炉は一度火を入れると,数十年休みなく稼働し続けます.

そのため3交替の勤務体制を敷いており,深夜業務も発生します.

 

更に製鉄所内は粉じんも飛散していますし,作業によっては重量物や有機溶剤も取り扱います.

こうした作業は労働安全衛生法が定める特定業務(有害業務)にもあたり,産業保健スタッフは,これらすべてに対応していく必要があります.

そうした産業保健活動の幅が非常に広いという意味で,製鉄業は「産業保健のデパート」とも呼ばれているのです.

 

鹿島製鐵所は,新日鐵住金の従業員だけで約3400人,協力企業まで含めると約13000人が出入りする,いわば「小さな町」です.

多岐にわたる職場のさまざまなリスクを把握し,たくさんの従業員の安全や健康を守っていく.

これだけ産業医として幅広い活動に携われる業種は,いくら日本広しといえども,なかなかないと思います.

 

 

―「産業保健のデパート」であればこそ,おのずと安全には敏感になるのでしょうか.見学した際には,横断歩道を渡る前に指差確認する従業員の方を見かけました.

 

やはり危険と隣り合わせですから,従業員は安全には人一倍敏感です.

いまは危険な作業のオートメーション化も進んでいますが,ひと昔前はそうした作業も従業員が担っていました.

そのため「太く短く生きる」「60歳まで生きれば御の字」といった風土があり,自分自身の健康管理に関心を向ける従業員が少ない現状がありました.

 

現場の従業員から「マンコロ」という言葉を言われたことがあります.

「満期(定年)まで勤めてコロリと逝く」,略して「マンコロ」.

「たばこと酒くらい自由にさせてくれ」「病院も嫌い」,いわばそうした風土です.

入社したばかりのころは,熟練の従業員に「産業医巡視です」と声をかけても,たばこを咥えたまま「そうかい.ご苦労さん.」と悪びれもせず返されました.

そんな空気感をイメージしてください.

 

 

―いわば健康への意識が低いということでしょうか.

 

そうですね.これはなんとかしないといけないと思いました.

ただ現場の従業員は健康への意識は低いものの,安全への意識は高い

そこに目をつけ,健康を害するたばこと,安全を脅かす熱中症を結びつけ,健康意識を高めるアイディアを思いつきました.

 

生理学的には,たばこを吸うと,ニコチンの影響で末梢血管が収縮します.

末梢血管が収縮すると,体内の熱は放出されないまま蓄熱されてしまい,結果的に体温が上がり熱中症のリスクを高めるのではないかという仮説を立てました.

 

そして先行研究を調べると,たばこを吸って運動した群は,吸わずに運動した群と比較して体温が高くなるという海外の論文を見つけ,「やっぱり間違いない!」と思い,さっそくぼくも製鉄所で実験してみることにしたんです.

 

当時のぼくはまだ研究の経験が少なかったということもありますが,結局は仮説に沿った有意な結果を得ることはできませんでした.

 

 

―残念ながら予想通りの結果が出なかったのですね.

 

そうですね.ただ実験を重ねていく過程で,たばこや熱中症には随分詳しくなりました.

安全や健康を扱う雑誌から,熱中症の特集原稿などを依頼されることも多く,かなりの数を書いたと思います.

 

そうこうしているうちに,東京大学のある研究グループから,名古屋製鐵所へ熱中症に関する共同研究の依頼がありました.

その研究は,呼吸数と心拍数で熱中症を予報するシステムを構築するといった内容でした.

 

ぼくは先の実験の苦い経験もあり,最初は半信半疑でした.「心拍と呼吸で予報なんて無理でしょう」と,「たばこを吸えば心拍数なんてすぐ変わります」と,そう研究者に言ったんです.

そうしたら研究者に「先生お詳しいですね」「一緒にやりましょう」と言われてしまい,逆に「はい,わかりました」と研究に協力することになりました.

 

 

―いわば怪我の功名といったところでしょうか.

 

そうですね.そしてこの研究は幸運にも実を結んだんです.

 

熱中症はいわば体温調整が破たんした状態ですが,その初期には,自律神経が働いて,発汗,心拍の上昇,呼吸数の増加といった作用により,体温は調整されます.

ですが,そうした機能が徐々に低下すると重症化を招く.

そのため,自律神経の活性をいかに正確に,かつリアルタイムに測ることができるか,に着目しました.

 

そこで現場で作業する従業員にセンサーを付け,呼吸数と心電図をモニタリングして自律神経の活動を測定し,熱中症の予報を出すシステムやアルゴリズムを開発しました.

 

一般的に熱中症の予防は,WBGT(暑さ指数)に基づいた管理になります.

しかし製鉄所は,適切な対策を講じたとしても,暑熱環境自体をコントロールすることは難しい.溶けた鉄を扱うわけですから.

そのため環境ではなく,従業員個人をモニタリングし,熱中症を予報し,作業管理者にアラートを出し,従業員に休憩を促すシステムがより有用だと考えたんです.

 

かつては熱中症の予報に有用と思われる指標を調べるために,さまざまな装置やセンサーを付けて実験を繰り返していました.

ですが,現在は簡素化の方向へ一歩進んで,センサーをTシャツに埋め込み,心電図と体温を正確に測定することに成功しました.

 

そして次のステップは呼吸です.

呼吸は口に装着したマスクでモニタリングしていましたが,装着の不快感だったり,そもそもマスクを使用する作業場面でしか使えなかったりと,まだ課題も残っています.

そのあたりは今後の研究と応用に期待していてください.

 

またぼくは研究グループで主に産業医として医学面や倫理面のアドバイスを担っています.

データ解析は大学研究者,特許関係は新日鐵住金の研究員,Tシャツは繊維メーカーと協力しています.

いわば産学連携で一緒に研究を進めていく楽しさもあります.

 

 

―過去の実験で得た熱中症の知識が,今回の研究に結びつきました.

 

実は「産業医になったら,ああいうことやりたい,こういうことやりたい」という志のある先生は多くいると思います.

その熱い思いはとても大切です.

しかし,研究へ取り組んですぐに成果を出したり,大きな組織をすぐに変革したりするのは,現実として難しい部分もあります.

そういう意味でも,ぼくはとりあえず目の前のことを一生懸命やっていたら,いつのまにか形になっていたというのもありだと思っています.

道を最初から一本に絞るのではなく,ひとまずいろんな道に進んでみると,意外な所につながりがあったりするものではないでしょうか.

 

 

(第3回に続く)

 

 [プロフィール]

田中 完(たなか ひろし)/新日鐵住金株式会社 鹿島製鐵所 安全環境防災部 安全健康室 主幹/産業医

長野県木曽郡出身.2005年、産業医科大学医学部卒業.名古屋徳洲会総合病院で臨床研修.

2008年,産業医科大学実務研修センター修練医を経て,2009年,新日本製鐵株式会社(現:新日鐵住金株式会社)へ入社.

名古屋製鐵所勤務を経て,2015年より現職.

社会医学系指導医,日本産業衛生学会指導医,温泉療法医,宇宙航空医学認定医,労働衛生コンサルタント.