診察ができる vol.2 鑑別診断
『病みえ』だとイメージしにくい,疾患を抱えた患者さんや家族の体験をストーリーを通じて描き出す「病みえストーリーズ」シリーズ.
今回は,「正常圧水頭症」を発症したベテラン漫画家の物語の第3話(最終話)をお届けします.
※本ストーリーは『病気がみえる vol.7 脳・神経(第3版)』p.188「正常圧水頭症」の項目を参考に作られています.
※病みえの「MINIMUM ESSENCE(必須の知識をまとめた項目)」に出てくる重要な情報は太字で示されています.
作者:奈々崎 優
監修:戸島 麻耶(京都大学医学部附属病院 脳神経内科)
「松浦.先生はどうだった? 描けそうか?」
会社に戻るといの一番に声をかけられた.
あの状況にあってこんな無粋なことを聞いてくる編集長にイラッと来る.
ただ仕方ない.先生の状況を知らないんだ.
なんと答えるべきだろうか.
先生のボケは病的だ.きっと認知症なんだろう.
もし先生が認知症なんだとしたらこれから良くなることはない.
今が最も状態がいいのなら,今描けなければ今後連載を続けることは無理だ.
あんなに面白いネームを描くのに.
では,あの支離滅裂な,しかし勢いのあるネームで進めるか?
いや,面白いが今までの読者が着いてくるかは微妙なところだ.それに編集長が許すはずがない.
「どうなんだ? 2週連続で休載は絶対に無理だぞ.それぐらいならもう連載終了させる.長期休載の体を取って,有耶無耶に終わらせるのがいいだろう」
頭の中でぐるぐると思考が巡る.
近い内に決断しなければならない.
「少し時間をください.先生の今後は少し考えさせてください」
隣の席の田代と話す.
「先生,どうなってるんですか」
「大変だよ.実はさ,認知症っぽくて」
「うわーーっ.そりゃ大変すね」
「でも,描かせてやりたいんだ」
「それは,先輩の意思ですか」
どうなんだろう.自然と出てきた言葉だったが,本当に俺自身の意思なんだろうか.
ここで本当に大事なのは……俺がどうしたいか,じゃない.
あの机に座っていた,彼の思い.
「先生自身の意思だ」
作家がやりたいようにサポートするのが編集の仕事なのかもしれない.ふと,そう思った.
「ん? その本は?」
話していて,田代の机に大量の専門書が積まれていることに気づく.
「あ,これですか? 最近朝霧先生のほら,医療系の漫画の担当になったんでちょっと勉強中です」
「田代って病気に詳しいのか?」
「まさか.医者じゃないんですし.ただの編集が医学知識なんてほとんどあるわけないじゃないですか」
「医者に聞くのが一番ですね.西田先生も病院かかった方がいいですよ」
頭から抜けていた選択肢に一瞬びっくりする.
「? どうして」
「どうしてって,治るかもしれないじゃないですか.実は認知症の中にも治療可能なヤツもあるんですよ」
「認知症って一度なったら回復しないんじゃないのか?」
「アルツハイマーとか一回脳が萎縮する認知症は完全に機能が回復することはあんまなさそうすけど,認知機能が落ちる原因は色々あるっぽいですからね」
「というか,アルツハイマーとかだとしても最近治療薬がそこそこ出てるみたいですから,どっちみち病院は行った方がいいですけどね」
完全に盲点だった.迫りくる締切に追われて,時間がなかったため病院に行く可能性を忘れていた.
悔しいほどにこいつの言う通りだ.西田先生は医者に診てもらった方がいい.
しかし,先生を病院に連れて行くのはいくつか障害がある.
まず,先生が描きたがっていることだ.病院で診断が下されれば描くことが許されなくなるかもしれない.入院で描けなくなるかもしれない.
そうした状況を本人が望んでないんだ.
そして,これ以上の休載が厳しいというこちら側の都合もある.
どうすればいい.
どうすればよりよい未来に向かえるのだろうか.
***
3日後,西田先生のところに向かう.
編集長と取り決めた,ギリギリの日程だ.ここまで先生からなんの連絡も来ていないことを考慮するともう連載を続けるのは絶望的だった.
連載終了の件を先生にお伝えしなければいけない.
マンションに着くと,ドアの取っ手は相変わらず引っかかりもなく回せた.
部屋の中は前回来たときと同じように,いや,さらに汚く散らかっていた.
その作業部屋の中心で先生が倒れていた.
「先生!」
駆け寄る.急いで口に耳を近づけて呼吸を確認する.息はしているようだ.というより深い寝息を感じる.
大丈夫,寝ているだけか.
周りを見渡す.散らかったネームは更に増えていたが,作業机に異変があった.
(これは……)
原稿だ.ネームじゃない.しっかりとペン入れされていた.
「こんな,短期間で……」
アシスタントも今はいないんだぞ.どれだけ集中して描ききったんだ.
どうやって……
机の右側に置かれたノートは,袋から取り出したばかりだと言うのにびっしりと書き込まれていた.
認知が落ちてきて,思考能力が落ちているのを必死にノートにメモして論理的に考えることで対策しているようだった.
「どこまであなたは,漫画バカなんですか……」
トントンと角を合わせ1ページから順番に並べ替える.
「読ませていただきます」
普段と比べると全然面白くない.何をやっているかもよく分からないところがあるし,線だってぐにゃぐにゃなところがあり綺麗には描けていない.
アシスタントがいない分,背景は最低限だった.
しかし,有無を言わせぬ凄みがあった.ベテランの作家にしか描けない最高級の作品がそこにはあった.
出来上がった原稿を封筒に入れ,カバンに詰める.
「先生,謹んで拝借させていただきます」
***
その足のまま編集長のデスクへと向かう.
「どうした? 何の件だ」
もう西田先生についてはどうでも良くなっているのか,決定事項なのか,興味なさそうに俺を見る.
「もちろん,西田先生の件です」
「それがどうした? ネームすら上がってないんだろ.もうリミットだ.認知症だっていうのならもう無理だろ.連載終了だよ」
「ネームが上がれば……」
ネームが上がれば連載終了を取り消してくれますか,と言おうとして思いとどまる.これはいつもの俺のやり方だ.通せる要求を飲んでもらい,それ以上の成果を突きつける.そうすれば元々の要求以上が通りやすいという小手先の技術だ.
しかし,先生が作り上げたこの原稿に小手先の技術なんて必要なのだろうか.ここまで命の籠もった原稿に本当にそんな小狡いやり方で応じていいのだろうか.
そうは思わない.この原稿一本で交渉は成立する.
「これを見てください」
「これは……?」
「西田先生がギリギリで上げた原稿です」
編集長が封筒を開き,中の原稿を確認する.
「原稿と言うには少しお粗末だな」
「いいですから,読んでみてください」
言われて不服ながら読み進める.
読み進めるごとに編集長の顔が変わっていくのが分かった.
「確かに……新しい味が出ている.これは,これで」
編集長が考え込んでいるのが分かる.判断が難しいところなのだろう.
「分かった.連載終了の話はなしだ.これだけ描けるのならまだやりようはあるな」
「それじゃ……」
「ただし! かなり無理したんだろう,週間ペースで描くのは危険だ.原稿を描きながら長期休載にしよう.その間に病院に行ってもらうように」
「……はい!」
軽い足取りで自分のデスクに戻る.
「松浦さん,なんかニヤニヤしてて気持ち悪いですよ.なにかあったんすか?」
隣の田代にツッコまれる.
「ちょっとな」
先生の根気が,戦いが報われたようで本当に嬉しかったのだ.
***
早速次の日,先生に連れ添って病院に赴いた.
今日まであったことを一つ一つ伝えた.
「なるほど,現病歴を再確認させていただきますね」
「数カ月前にくも膜下出血で一度救急車を呼んでいた.そしてそれからしばらくしてから歩行に違和感があった.そして今にかけて,認知症のような症状,そして尿失禁もあったんですね」
「はい」
「これは……認知症と言うより他の病気が鑑別に上がりますね.確認するために画像検査をします.CTとMRIどっちも撮りましょうか」
画像所見
左右対称性の脳室拡大,Sylvius裂・脳底槽の拡大,頭位円蓋部の狭小化
腰椎穿刺
髄液圧正常(200mmH2O以下)
「やはり,正常圧水頭症のようですね」
「水頭症……?」
「はい,くも膜下腔で髄液通過障害が生じて脳脊髄液がゆっくり増加するに伴って,脳室全体に圧力が上昇し脳室が拡大するという病態です」
「これによって,歩行障害,認知機能の低下,尿失禁の三徴が見られます.くも膜下出血の後に見られることが多いですね.その場合は続発性と呼ばれます.逆に特に先行疾患がない場合もあって,それは特発性と呼ばれますね」
「認知症ではないんですか」
「何を認知症と定義するかは意見がありますが,この病気は『治療可能な認知症』と呼ばれたりしますね」
ということは,これから悪くなることはあまりないのだろうか……?
「つまり,治るんですか?」
「認知機能の改善を保証するものではありませんが……歩行障害に対してはシャント手術がよく効くことが多いですね.これから入院してtap testを行って数時間後,1日後,2日後に歩行障害の改善が見られるかどうか検査してみましょうか」
「それは……つまり……」
我々が少し思いつめたような顔をしていることに気付き,医師が簡単に付け足してくれる.
「結果的にですが,認知機能も改善に向かうことはありますよ」
胸を撫で下ろす.ならこれからも,先生は描き続けられるのか.
待合室で西田先生に声をかける.
「まあ,ちゃんと治療すればこれ以上あまり悪くはならないみたいですね」
「そうか」
「早く病院来ていればよかったですね」
先生は少しバツが悪そうに無視をする.
「まだ,漫画が描けそうですね」
そう言う俺の顔を見て,凄く嫌そうな顔をする.
「ふん」
ため息をつくように小さく吐き捨てる.
「めんどくさい」
その一言に病院だと言うのに,俺は笑ってしまった.
(了)
いかがでしたか?
治療可能な認知症があることは、世間一般ではあまり知られていないかもしれません。このような疾患があるということを念頭に置き、早期に受診することが大切ですね。日頃の学習では,知識を覚えることで精一杯で,患者の体験にまで想いを巡らせる余裕はなかなかないかもしれません.このストーリーが教科書の行間にある患者さんの体験を想像する助けとなれば幸いです.
このストーリーは『病気がみえる vol.7 脳・神経(第3版)』p.188-191「正常圧水頭症(NPH)」の項目を参考に作られました.次に本項目の「MINIMUM ESSENCE」を載せますので,ストーリーで出てきた知識の振り返りにぜひご覧ください!


今後,他の疾患のストーリーも順次公開していきます.お楽しみに!