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巨大鉄鋼メーカーの専属産業医として働く(3)個人も組織も診る医師として~田中完先生~[みんなが知らない医師のシゴト]
―田中先生は産業医活動と並行してアルコール依存症の研究にも取り組まれています.
正直,以前はアルコール依存症の問題にあまり関心がありませんでした.
ですが,名古屋製鐵所に勤務していた当時,とある産業医の先生が主宰するアルコール問題研究会に声をかけていただいて,アルコール依存症の研究に取り組むことになりました.
その研究会は,内科医,精神科医,救急医,産業医が集まり,関係学会や行政機関にアルコール対策を働きかけるといった趣旨でした.
ぼくはその産業医代表として世話人を引き受け,職域とアルコールの問題を絡める研究を始めました.
―職域とアルコールは,どういった関係にあるのでしょうか.
以前のアルコール依存症治療は,きっぱりと酒を止める断酒が基本でした.
産業医としても,アルコール依存症の従業員には,「断酒してください」と指導していました.
ですが,現実として断酒はなかなか難しい部分があります.
たとえば,うつの場合は,本人が「治りました」と言えば,客観的に判断する材料は少ない.
ですが,アルコールの場合は「飲んでいません」と言っても,血液検査の結果を見ると,すぐに分かってしまいます.
結果的に断酒に失敗し,休職期間が満了となって辞めてしまう従業員が多かった.
やはり「アルコール問題はなかなか難しいな」という印象を持っていました.
ですが最近,アルコール依存症治療にパラダイムシフトがありました.
一昔前は「とにかく断酒」だったのが,「節酒でもよい」という方針になったのです.
現実問題,職場とアルコールは切っても切れない関係です.
そのため,重症化した後に介入して断酒するのではなく,早期に介入して緩やかに節酒するという方針を採る.
実際,こうした方針を検証する研究でも,よい結果を得ることができ,関係学会のシンポジウムや雑誌の特集でも報告しました.
そうこうしていると,アルコール依存症治療で有名な久里浜医療センターの先生に声をかけていただいて,次のアルコール・薬物関連障害のガイドラインの作成に関わることになりました.
重症化する前に節酒を目指す.そのためには専門の精神科医だけではなく,かかりつけ医や産業医の役割は自ずと大きくなります.
重症な依存症の治療だけではなく,早期の対応,中期の対応も含めた一気通貫のガイドラインを目指しています.
―鹿島製鐵所では協力企業を含めて約13,000人の従業員がさまざまな職場で働いています.そうした従業員の健康と安全を守るために,産業医活動で心がけていることはありますか.
とにかく現場の仲間になる.それに尽きます.
現場を知る,ありとあらゆる細かいところまで知る.
作業工程,製品名称や機能にはじまり,業界に関係する経済情勢まで知る必要があります.
たとえば,長時間労働者への面接指導.
従業員が「仕事が多くて大変なんですよ」と切り出すと,「最近はあの案件もあったもんね」と返す.
すると「先生,よく知ってますね」と話が弾みます.
話が弾めば後は簡単です.
ひとりひとりの従業員の話すエピソードをしっかり受け止めて吸収し,あるいは他の従業員の話すエピソードと組み合わせ,組織全体が抱える安全や健康のリスクをあぶり出します.
ぼくはよく産業医を目指す後輩に「産業医活動はジグソーパズルなんだよ」とアドバイスします.
各従業員はみな1個ずつピースを持っている.
そのピースを集め,組み合わせると,ジグソーパズルが完成する.
いまどこでだれがどんな問題を抱えているのか,その問題を解決するにはだれになにをアドバイスするとよいのか.
その手がかりとなるジグソーパズルが完成すると,職場にある課題が手に取るようにわかります.
―とにかく現場を知ることが大事なのですね.
そうです.とにかく現場を知り,課題を掴めば,大きなトラブルに進展する前に,手を打つこともできるようになります.
そうした活動を積み重ねると,従業員の間で,産業医に相談してみようという機運が高まり,従業員は産業医を信頼し,結果的に産業医活動がやりやすくなります.
これはぼくが作った言葉ですが,「産業医の千利休理論」というのがあります.
豊臣秀吉は,異父弟の豊臣秀長と茶道家の千利休を重用しました.
「表向きのことは秀長に,内々のことは千利休に尋ねよ」という言葉は有名ですが,「公事は秀長に,私事は利休に相談せよ」という意味です.
千利休の茶室に招かれた大名は,本人と利休以外には誰もいない小さな空間で,心を許し,さまざまな事柄を話します.そして千利休は大名が話した事柄を,秀吉に報告します.
―本音を語れる空間が大事ということですね.
そうです.千利休は茶室という空間で得た情報を,ただ報告するのではなく,オブラートに包み,秀吉につぶやきます.
千利休は茶を点てつつ,「そこかしこではこのようなうわさがあります」とそれとなく秀吉に伝える.
秀吉はそれに耳を傾け,手を打つのです.
産業医も似ている部分があります.
いわば千利休は産業医,大名は従業員,茶室は面談室です.
本人と産業医以外には誰もいない小さな空間で本音を引き出す.
そして産業医は,それをオブラートに包んで,関係者や関係部署につぶやく.
すると,少しずつ職場がいい方向に動いていくのです.
もちろん最初は一筋縄ではいきません.
面談や巡視を重ねて経験と勘を養い,関係者のキーマンはだれか,関係部署は総務なのか,人事なのか,あるいは労働組合なのかといった具合に,どこに働きかけると,どのように物事が流れていくか,を知る必要があります.
ですが,現場の仲間になると,自然とそういった情報は手に入りやすくなります.
とにかく知る.これが産業医活動の肝だと思います.
―最近は医師の働き方改革も話題です.一般的に産業医のワークライフバランスはいかがでしょうか.
病院勤務医と比較すると,仕事と家庭生活は両立しやすく,働きやすいと思います.
昔の医師のキャリアパスは,いったん専門領域を選択したら,その道一本しかありませんでした.
ですが,いまは時代が違います.ぼくは若い産業医に,「たとえば大学院に進学して,臨床しながら,非常勤で産業医をやってもいい」あるいは「育児が大変な時期は,一時的に臨床を休んで,非常勤で産業医をやってもいい」と,産業医はいろんな働き方で活躍する素地があるとアドバイスしています.
また鹿島製鐵所は社会医学系専門研修プログラムの研修基幹施設です.
現在(2018年7月時点),全国には社会医学系の研修プログラムが70ヶ所前後ありますが,企業が中心となって研修プログラムを組んでいるのは,この鹿島だけだと思います.
ぼくは研修プログラムの指導医も務めていますが,「産業保健のデパート」とも呼ばれる製鉄所をフィールドに,熱意あふれる先生方が集う実践的な教育機関を目指したいと思っています.
―最後に産業医のやりがいを教えてください.
おおきく3つあります.
第一に,個人だけではなく組織も動かせる.
たとえば,たばこ.臨床医は「喫煙量を減らしてください」と指導します.
ですが,産業医は「何月何日から建屋内全面禁煙にしましょう」といった具合に組織自体を動かせる.
従業員の安全や健康を守るため,スケールの大きな仕事に取り組めるのも魅力です.
第二は,自分自身で提案や企画を行い,従業員の健康や安全をマネジメントできる.
たとえば,禁煙外来と歯科治療のコラボです.
禁煙外来を受診した従業員が,半年間の禁煙に成功すると,歯科のヤニ取りを無料に,更にはホワイトニングを安価にするキャンペーンを打ちました.
「いったん歯が白くなれば,もう吸わないでしょう」という発想です.
臨床の世界には少ない,いわばアイディア勝負の世界です.
また,ぼくは産業医であると同時に,企業に勤めるサラリーマンです.
他の社員と同じく昇格試験に臨み,財務研修も受けています.
社会とのつながりや刺激は,病院と比較すると,圧倒的に強いし多い.それもまた魅力です.
第三は,ただ面接して会話しただけなのに,感謝の気持ちを受け取る機会が多い.
産業医は基本的に臨床医と異なり道具も薬も使いません.
ですが,部屋に入る時には暗かった従業員の顔が,話を聞くにつれ明るくなり,「ありがとうございました」と部屋を出て行く.
そんなときには「いい面談したなあ」と,「しみじみ産業医っていいなあ」と思います.
従業員が思いを吐き出す.産業医はその思いを受け止め,しっかりと吸収する.
そして従業員と企業の間に立ち,触媒となって困りごとを解決し,働きやすい職場を作っていく.
そういった仕事にやりがいを感じています.
(全3回 連載終了)
[プロフィール]
田中 完(たなか ひろし)/新日鐵住金株式会社 鹿島製鐵所 安全環境防災部 安全健康室 主幹/産業医
長野県木曽郡出身.2005年、産業医科大学医学部卒業.名古屋徳洲会総合病院で臨床研修.
2008年,産業医科大学実務研修センター修練医を経て,2009年,新日本製鐵株式会社(現:新日鐵住金株式会社)へ入社.
名古屋製鐵所勤務を経て,2015年より現職.
社会医学系指導医,日本産業衛生学会指導医,温泉療法医,宇宙航空医学認定医,労働衛生コンサルタント.