イヤーノート2025 内科・外科編
【いいんちょーの僕です。】第8回 “他人(ひと)の不幸でメシを食う”
これは以前,僕が出会った医師の方とのやりとりから生まれた考察です.
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その先生は,彼が専門とする領域で名の知れた人だと聞いていた.実際に話をしてみると口数は少なく,人当たりがいいという訳でもない.…ただ,抑えられた声調で淡々と話す様子には,滲み出る誠実さが感じられた.
これまでに出会った先生とは異質な雰囲気を持っている—.そう感じた僕は会話の流れの中で,こんな質問を投げてみた.
「外来診察や手術等について,先生が特に好きであったり,得意とされていることはありますか?」
すると先生はすこしの間を置いてから,「そんなことは考えたことがない」と応えた.
「どんな人も出来るなら医者にかかりたくないし,かからなくて済むのが一番です.目の前の患者さんが今後病院へ来なくてもいいように何をするか,ただそのことだけを考えています.そのために手術が必要ならするし,しなくていいのなら絶対にしません.ただそれだけのことで,自分がやることの好き嫌いを考えたことはありません.」
それまでと何も変わらないトーンで淡々と話す姿を見ながら,僕は静かに胸が高揚しているのを感じた.“医師とはどうあるべきか?”この問いについて,今までの学生生活の中,少しずつ輪郭を持ち始めた自分なりの答えがあった.そしてこの先生こそは,僕の理想を具現化している人のように感じたのである.
すると彼は,こう続けた.
「医師という職業は,他人の不幸でご飯を食べさせてもらっている.このことを忘れないようにしています.」
憧れとされている職業
昨今のテレビ放送において,医療や健康をテーマにした番組が流れない日はないように思う.そしてそこには必ずといっていいほど,解説や助言を行う立場に医師が登場している.ニュースやワイドショー,そしてバラエティに至るまで,ジャンルを問わず活躍の幅を広げているようだ.さらに医療系のドラマ作品も数多くつくられていて,有名俳優さん達の扮する医師は大抵が命を救うヒーローとして描かれている.そんな華々しいイメージからか,子ども達を対象にした「なりたい職業ランキング」といったものには,毎年のように医師が上位に入っているようだ.
このように少なくない人達が一度は憧れる医師という職業について,あの先生は「他人の不幸でご飯を食べさせてもらっている」仕事であると表現した.一見して世間のイメージとはかけ離れたこの言葉に,僕は頭をゴンと殴られたような気分になった.
あの先生の言葉が意味していたものとは,一体何なのだろう?僕は自分が理解できる形にまで,何とかこの言葉を咀嚼したいと考えた.
医療者が医療者であるために
全国に医師を含む医療従事者は数多くいるが(まもなく僕もその一員になる),彼らに共通する医療の目標やミッションとはシンプルなものではないだろうか.それはつまるところ,「患者さんの命を守り,心身の健康を取り戻したい」という点に集約できると思う.
けれど突き詰めて考えてみると,医療者はこんなジレンマに行き当たる.彼らは人々の健康が良い方向へ向かうことを願うけれど,一方で「医療を必要としないほどに健康な社会」を望むことは難しい.なぜなら,社会がその実現に近づくほど“患者さん”と呼ばれる人々は少なくなるはずで,それはそのまま医療サービスの出番が減ることを意味するためだ.おいしいパンづくりを極めても顧客は増えるばかりだが,医療を極めて皆が健康になれば,患者さんはいなくなってしまう.もし患者さんがいなくなれば,当然ながら医療という業界そのものが消失することになる.
「現実問題として,怪我や病気がなくなるわけがない」という意見はもちろん正しい.ここで僕が確認しておきたかったことは,“医療者が医療者として社会に存在するためにはコインの裏表のように必ず患者さんと呼ばれる人々が必要であり,患者さん—つまり怪我や病気を患ってしまった人の存在なくして,医療者は存在することができない”という事実だ.怪我や病気が当たり前に存在するこの世の中では,あたかも“医療”という自立した概念が最初からそこに存在していたような感覚に陥りやすい.そこでは,“患者さんあっての医療”という大前提をつい忘れがちになる.冒頭の先生は,まさにこの点を指摘したかったのではないだろうか?
これらのことを意識すると,あらためて医師が様々な場に活躍を広げる昨今の状況について,それらはすべて怪我や病気の問題を抱えている患者さんの存在があってこそ成り立っているということがわかる.さらに言えば,医師が世間で存在感を強めている社会の状況というのは,それだけ健康のことで困っている人達が数多く存在するという,あまり好ましくない状況の反映であるとも解釈できると思う.
自覚から生まれる謙虚さ
「他人の不幸でご飯を食べさせてもらっている」
先生の一連のメッセージについて,勝手ながら僕の解釈は以下のようなものになった.(今度お会いした際には,この解釈が適切であるかを確認するつもりだ)
“医療とは,人々が不本意にも怪我や病気に罹ってしまい,患者さんとしてやってきてもらうことで初めて提供が可能なサービスである.つまり医療(者)のために患者さんがいたことはなく,常に患者さんのために医療がある.そして医療者は,このサービスにより報酬を得るプロフェッショナルとして,患者さんの問題を解決するために全力を尽くすことが求められている.”
他人の不幸でご飯を食べさせてもらっている—これから医療行為を行う立場になるにあたって,僕はこの事実にいつでも自覚的でありたいと思った.なぜなら,この自覚から自然に導かれる謙虚さというものが,あの先生が持つ誠実さの基盤なのかもしれないと考えるからだ.
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ここまでお読み頂き,ありがとうございました.
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■筆者プロフィール
I.O.:関東の医学生.1回目の大学で法学部を卒業後、会社員や音楽活動などを経て医学部へ入学.日本循環器学会関東甲信越支部Student Award最優秀賞.心電図検定3級.ディープラーニングG検定2020#1.
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–いいんちょーの僕です。目次–
第17回 国試の結果とご挨拶 (付録:Post-CC OSCE対策のコツ)
第11回 “Post-CC OSCE”という,事件.[後編]